徒然なる雑記

日々の発見や趣味や学びについての記録

ある大学院生のお話

小学校、中学校の組体操について思ったこと。

 小学校の頃からの友達と最近議論したこで思い出したことを書いてみようと思います。

 

 母の影響が強く出ているとは思いますが、学校に対して基本的に懐疑的です。その懐疑心や批判的に見ることが大事であったと思うのではありますが。

 

 まず、体育大会が嫌いです。小学校において体育大会では、教師の通知表という強制力を持ってして、教師の自己満足の為に組体操というものをさせられました。

1組体操の事故を聞くにつけて、死をかけてまで得るべき達成感や連帯感などあるのでしょうか? 

2そして、本当に全ての親はそれを見て感動しているのか?

この2点がどうしても分かりません。

 

1について

 教師(やその手先となって手前に立ってキーキー言っていた連中)達は「痛いのは・しんどいのは、自分だけじゃない」や「みんなやってる」や「(謎の怒りの後の)今日の練習が一番」だの「一時はどうなるかと思ったが本番が一番良いのができた。」など。本当に反吐が出る。どの言葉にも、やつらの主観でしかものを見ていない、高慢な自己満足が透けて見えるのに気持ち悪さを感じ得ません。そもそも、何のための組体操なのか?

確かに本当に達成感や連帯感を求めて、 一心不乱に打ち込みたい人は自由です。それこそ、正に美しい努力と言えるのかもしれませんが、そう思わない人の自由を侵害する権利をなぜ持つのでしょうか?やりたい人だけが命をかけてやればいいものを他人に押し付けるという構造がいかにも気にくわない。

 

 2について

 親は本当に感動するのか?一番上で輝く我が子を見れる人は良いのかもしれません。しかし、土台などと言われて、クソ暑い中、歯をくいしばる=苦しんでいるだけの我が子を見て何が良いのでしょうか。正直、それで喜べる親は気持ちの悪いエゴの塊のように思えます。そもそも、そんなよくも見えていない訳ですから、何が良いのか。

また、死のリスクを負わせてまで何が見たいのか?

 

以上より、当時より組体操について思っていたことでした。