徒然なる雑記

日々の発見や趣味や学びについての記録

ある大学院生のお話

三島由紀夫

 三島由紀夫の作品を久しぶりに触れてみて。

 僕は高校生の頃から所謂文学作品というものに心惹かれるタイミングが多々あり、いつか琴線に触れたのが三島由紀夫の最期の4部作、豊穣の海であったと思います。

 かの作品の中に仏教的精神や哲学、作者の人間への洞察力を感じ非常に没頭したのを記憶しています。

 三島由紀夫自身の政治的主張や最期についてはまた別論考える機会を持つべきではありましょうが、基本的に私は三島由紀夫の作品が好きです。

 

 三島の愛についての見方は色々語られているところではありますが、「絶対者に裏から上り詰める」というような趣旨や、「社会から認められた愛は、スーパーマーケットで売られているものに過ぎない」というようなことを言っていたと記憶しています。

 三島の文学的側面からみると、文学における絶対者としての天皇という存在が必要であったと述べているということです。西洋においてはキリスト教唯一神という存在があるため、事欠かないが、日本においては唯一神のいない日本における絶対者とは天皇であったのだと考えていたようですね。

 三島は終戦以後の象徴天皇という存在を心から嫌っていたと思いますが、そういった文学的側面からの評価もあったのではないかと思います。

 また、多くモチーフとして用いられているものに、同性愛というものがありますが、彼に言わせると、純愛とは社会に認められ、形式を与えられてしまうと、そこには不純なものが含まれてしまい本来の純愛ではなくなってしまうのであると。社会的に非難・批判、白い目で見られる様なものの中にしか純愛を見出せないという事ではないでしょうか。

 その様に見返してみると、初期の作品である潮騒は単純なる純愛であったように読んでいたが、その実は社会が恋愛というものを認めない社会の中での愛であったためモチーフになり得、また、仮面の告白では社会が白い目で見るはずだからモチーフになり得たという風に読むことができるように思います。

 

なんだか、乱文ではありますが、思った事でした。もっと内容を洗練させなければならないとは思いつつもここまで。